
商店の退職金で1トン積みの中古車を購入し「魚屋」の始まりです。商標登録名「長谷川水産」、千代司と妻ミサ子を中心に、父の千代次郎、長女の洋子、ノブ、幸枝、良子・・・を初め、大家族で家族ぐるみでの創業でした。
千代司と千代次郎は仕入れや販売など、運転で走り回り、妻ミサ子やその娘達は魚の加工や子守りや食事の支度など、まさに家族全員で自分の出来る事を夫々にこなし家業を盛り立てました。

それまでは個人商店でありましたが、商工会の方より税理士に頼み申告をするようにとアドバイスを受け、「 は 長谷川商店」と名前を変え法人化。徐々に規模を拡大し、鮮魚のみならず水産加工業も営むようになって行きました。
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長谷川家は江戸時代、京都で漢方医を営んでおりましたが、オランダから入って来た「蘭方」に目覚めたらしくその道に入りました。ところがそれが切っ掛けで迫害を受ける事になり、京都を逃げ出したそうです。
その後、金沢、秋田、北海道道南地方、樺太地方と移動。戦時中は軍医であった先々代の祖父も亡くなり終戦を迎え、樺太(サハリン)を引き上げ、常呂に移住しました。終戦時は生活をするのも大変な状況でしたが、長谷川商店の創業者である先代「千代司」は商店に入り、過酷な労働環境の中、人一倍の鋭意努力を続け、自分で商売をする知識を身につけたようです。
その後、千代司と千代次郎は、網走の魚屋、常呂町漁業協同組合と魚を求め走り回りました。秋、魚の取れる頃、魚を積んで帰ってくるのはいつも夜中で、それから家族ぐるみで魚を加工し、荷姿にし、箱に詰めるのです。そして翌朝早くから、常呂などの農家さんを相手に魚を売り歩き、昼食は家の者が握ったお握りを食べながらの運転。そして帰宅は仕入れを終えた深夜・・・という生活のため、幼い娘はたまに見る父親の顔を見て泣き出す・・・と言う生活振りだったようです。

長谷川裕司が家業を継ぎ、株式会社はせがわ食品として株式会社化。
常に安定した生産や出荷を行うため、長年のノウハウを活用した加工食品の生産・販売などに力を入れて来ました。
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はせがわ食品は、それを第一に考え、昔も今もそしてこれからも。
一生懸命に取り組んで行きます。